阿久澤麻理子

「発展の権利」は、「それを誰が主張するのか」によって、人権を実現する有力な手段にもなれば、国家による人権侵害を正当化する論理ともなってしまう「諸刃の剣」です。先住民や女性など、マイノリティに属する人びとがこれを主張すれば、集団としての発展や自己決定の大切さを訴える論理になる一方で、国家の指導者がこれを主張すると、経済開発を優先するために個人の自由を制約し、貧困層やマイノリティの権利を侵害すること(例えば、ダム建設のための強制移転を考えてみてください)を正当化する論理になりかねないからです。 「アジア的人権論」も同様です。「自由権よりも社会権を優先すべき」という主張は、国家が自由を制限し、市民の「開発独裁」に対する批判を押さえ込む論理となり、「個人よりも国家・国民という集団を優先すべき」という主張は、開発のために貧困層やマイノリティの人権侵害を正当化するものとなりかねません。また、「人権は国内問題である」という主張の背景には、先進国や国際機関が人権を開発援助の供与条件にすることへの反発もありますが、このように主張することで、人権問題の解決のための、国際的な連帯や協力が否定されてしまう危険性があります。これは「発展の権利の実現のためには国際協力が不可欠である」という考えかたとも矛盾します。このように、「アジア的人権論」は、これを国家の指導者が主張するところに、大きな問題があるのです。